Monthly Archives: 2月 2017

ウイリアムス神学館 1年次必須書籍と参考書

ウイリアムス神学館1年次で使う教科書と参考書

絶版や入手不可の書籍が教科書になっているので、収集するのが困難です。

現在入手困難で必要とされている書籍

  • 1938 年日本聖公会祈祷書 (教会に保管されていれば頂戴するしかない)
  • 1959 年日本聖公会祈祷書 (教会に保管されていれば頂戴するしかない)
  • 『改正増補 日本聖公会祈祷書解説』、日本聖公会管区事務所、1994 年
  • A.リチャードソン『キリスト教教理入門』S.H.パウルス訳、日本聖公会出版部、1968年
    ウイリアムス神学館に在庫があれば。
  • 速水敏彦『新約聖書 わたしのアングル』聖公会出版、1985年
  • 菊地榮三・菊地伸二『キリスト教史』教文館、2005 年
  • 詩篇注解 (リーフ・バイブル・コンメンタリーシリーズ)

 

以下の書籍は必須です。
古本でも十分ですが、書き込みがないものが良いです。

  • 1990 年日本聖公会祈祷書』(2013 年 改訂第 2 版第 1 刷)
    現行の祈祷書なので、管区事務所に問い合わせ。03(5228)3171
  • 速水敏彦『新約聖書 わたしのアングル』聖公会出版、1985年
  • J.G. メイチェン著『新約聖書ギリシャ語原典入門』田辺滋訳、新生宣教団、2000 年
  • 原口尚彰著、『新約聖書概説』教文館、2004 年
  • 今道友信『西洋哲学史』講談社(講談社学術文庫)、1987 年
  • 勝村弘也著『旧約聖書に学ぶ』日本キリスト教団出版局、1993 年

 

以下の図書は、手元に無いと何かと不自由する書籍
学校の図書館にある書籍なので、図書館の利用でも構わない。

  • 新約聖書 岩波書店 新約聖書翻訳委員会 2004
    聖書研究授業で活用します。授業ではコピーも利用しています。
  • 旧約聖書概説 (1980年) (信徒のための聖書講解ー旧約〈第20巻〉)
    授業「旧約入門」の内容をよりよく理解するために参考になります。

以下の注解書は常時使います。

  • 新約聖書注解―新共同訳 (1)
  • 新約聖書注解―新共同訳 (2)
  • 新共同訳 旧約聖書注解〈1〉創世記―エステル記
  • 新共同訳 旧約聖書注解〈2〉―ヨブ記 エゼキエル書
  • 新共同訳 旧約聖書注解3・続編注解

さらにあると便利な書籍

  • キリスト教大事典 改訂新版
    風の便りだと、新版を作っているらしいが、発売未定の様子
  • ギリシア語 新約聖書釈義事典[全3巻セット縮刷版]
  • 大貫隆・山内眞監修『新版 総説 新約聖書』日本基督教団出版局、2003 年
  • 新版 総説 旧約聖書
  • 聖書人物おもしろ図鑑 旧約編
    聖書内容試験対策に手元にあると良い。
  • 聖書人物おもしろ図鑑 新約編
    聖書内容試験対策に手元にあると良い。
  • 旧約聖書に強くなる本
    聖書内容試験対策に手元にあると良い。
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2017年2月11日(土) バルティマイを愛する

2017/02/11
聖光教会 夕の礼拝お話
マルコによる福音書10章46節〜52節

本日の聖書箇所には「盲人バルティマイをいやす」とタイトルが付けられています。
目の見えないバルティマイを、イエス様が癒される話しです。

しかし、いやしの話しよりも、バルティマイが叫んでイエスに憐れみを願ったときに、多くの人々がバルティマイを叱りつけたと書かれていることが気になります。

イエスが一行とともにエルサレムに向かっている途上の出来事です。一行とはイエスの弟子であり、イエスとその弟子たちとともに行動を共にしていた群衆です。

イエスを信じ、ともに行動をしていたメンバーなのですが、物乞いをする盲人バルティマイに対しては、冷たくあしらっているのです。

バルティマイは、ナザレのイエスが数々の奇跡を行い、いやしの力を持っていることをすでに知っていたのでしょう。「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と言い始めたの」ですから、まさか、自分の前をイエスが通るとは、こんな嬉しいことはありません。
このチャンスに、いやしてもらえるならば、いやして欲しかったのだと思います。

多くの人々は、叱りつけ、黙らせようとしました。
なぜでしょうか。

物乞いだからでしょうか、盲人だからでしょうか。
道ばたに座っていたからでしょうか。

イエスを「私たちの救い主なんだ」と信じるものにとって、その信じるという信仰は一体誰のものなのでしょうか。
イエスに従っている弟子たちにとって、その信仰は、弟子たちのものなのでしょうか。
さらに従っている群衆たちにとって、その信仰は、お互いが認め合った者同士のものなのでしょうか。

このことは、普段の私たちの日常でも多く起こっています。

排外的行動です。

アメリカに於いては、新しい大統領によって、排外政策が行われようとしています。
日本に於いては、韓国朝鮮人に対する排外行動が見受けられます。
また、中国を敵対勢力として認識している政治家もいます。

もっと身近な話しでは、教会そのものが、自分たち私たちとなじめない方々を排除する姿勢をとることがあります。

泣き叫ぶ赤ちゃんを受け入れられない。もう少し大きくなった子どもたちが、うろちょろするのが受け入れられない。自分の言うことを聞き入れてくれない若者たちを受け入れられない。
身体に障害があるために、じっとしていられなかったり、声を発してしまう方々を受け入れられない。

自分にとって都合のいい人しか受け入れられない。
この様な状況が常にあるのではないでしょうか。

イエスは、立ち止まってバルティマイを呼んでこさせました。
イエスが自らバルティマイの所へ行くのではなく、呼んでこさせたのです・
群衆が叱り黙らせようとしている状況に対して、群衆によってバルティマイを連れてこさせたのです。

イエスだから、救い主だから、神様だからバルティマイを受け入れることが出来る、そうではなく、人々によってバルティマイを受け入れるようにとも受け取れます。
特別な能力や技術が無くても、バルティマイを受け入れられるのかもしれません。

そして、バルティマイはイエスによっていやされ、目が見えるようになったと記されています。
「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは言われました。

バルティマイの信仰は、孤独の中の信仰だったのかも知れません。目が見えず、道ばたで物乞いをする人生。この様な人生の中で、イエスのうわさを聞き、それを信じてずっと待っていたのでしょう。だからこそ、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と言い始め、群衆に止められてもなお「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び続けたのです。
イエスを信じていたのです。

目が開かれたバルティマイは、イエスに従ってついていくことになっています。
私たちは、群衆なんでしょうか、それとも、群衆の中からバルティマイに手を差し出す人々なのでしょうか、その後、仲間に加わったバルティマイ。

目が見えるようになったバルティマイだから受け入れることが出来たのでしょうか。
信仰によって立っていることが大切です。

イエスを信じる信仰によって、私たちは集められ、そして派遣されています。
信仰によって救われる。

クリスチャンとして、分け隔て無く、キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがある事を証していきたいと思います。

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2017年2月4日(土) 祈り祈られる

2017/02/04
聖光教会 夕の礼拝お話
マルコによる福音書9章17節〜33節

祈り祈られる。
教会にいますと、言葉の端々に「お祈りしています」という言葉を耳にします。
「お祈りしています」というのは、何をお祈りしているのでしょうか。

病のうちにある方には「良くなる様にお祈りしております。」でしょうか。
困っている人には「困りごとがなくなります様に」でしょうか。

「イエス・キリストの御名を通してお祈りをお献げします。」と神様にお祈りをお献げしています。
日本の文化風習の中で生活していますと、私自身も仏教徒の家庭で育ち、親戚関係には神道もいますので、物心ついたときからごくごく普通に神社に願い事を叶えるお願いをし、お寺に行ってお墓参りでは先祖供養とともに、先祖のご加護があるようにとお経を唱える習慣が身についています。

いずれにしても、願い事を聞き入れてくれる様にお願いすることが求められていた様に感じます。
先日、Facebookの知り合いが面白い投稿をしていました。
「神社でお参りするときに、自分の住所をつぶやくって話を聞きました。」とのことで、とても疑問に感じられてのことです。
住所そのものは行政の都合で変わってしまうものですから、その都度神様への報告はどうするのか。や、神様に対する礼儀の様なもので、どこどこの誰それが来ましたと参拝するんじゃないか。とか。

似た様な話があり、「初詣の御賽銭は、「五円だと御縁がある」「十円は遠縁に通じる」などの俗説があるが、ある神職が「神様は、日本の貨幣制度が円になるずっと前から人々を救ってらっしゃいますので、関係ありません」と答えていたのが最高にクールだった。」
という話しです。

住所の話しにしても、お賽銭の話しにしても、その中心に「私」というのがある様に感じます。
私の行いに対して、神様が応答するという関係です。

私たちの行いに対して神様が期待通りに応えてくるのであれば、こんなに御利益(ごりやく)があって、役に立つ神様は自分にとってとても有益です。そして、その延長には、自己利益のみならず、他者の不利益も願う様になっていってしまうのも良くわかります。
そして、信仰とは全く離れて行ってしまい、憎しみや争いというのが起きてきてしまいます。

では、私たちは何をどのように祈れば良いのでしょうか。
同じ質問が聖書に書かれており、弟子たちがイエスに聞くことによって、イエスは、今、私たちが唱えている主の祈りにあたるものを教えてくださいました。

主の祈りに於いても、また、他の祈りに於いても共通しているのは「私の願いを聞き入れてください」ではなく、「御心に適うように」と、神様と私の関係において「神様から与えられている愛を感じ、受け取り、応答する私たち」というのが求められています。
今読みましたマルコによる福音書9章23節でも「できれば」と言うか。とイエスに指摘されております。

「神様の存在を受け入れ、信じ、その愛を受け入れる」さらには「イエス・キリスト」を信じるといういくつもの信じることがあり、日本の文化風習の中で生きていると、とても信じがたい事柄が多く現れてきます。

信仰をもつということは、今、ない状態からすると、自分にとって「なにかひとつのものが増える」ということかも知れません。人によっては負担がひとつ増える、毎週教会に関わっている、もしくはそれ以上に教会に関わっている人にとっては、ひとつどころが、いくつもの負担が増えてしまうのかも知れません。

それは教会という目に見える建物や組織の問題であり、信仰の問題ではないのです。
信仰というのは私たち一人ひとりを豊かにし、自由にするものです。

そこには、神様の愛によってこの世に生き、そして生かされております。
祈りによることによって、私たちはその信仰の道を歩んでおります。

そこに初めて「お祈りしております」という言葉の意味が見えてきます。
私たちが他者のことを思い、神様に心を向けて祈るとき、
信仰にたち、御心を信じることによって、いまの状況が見えてくるのかも知れません。

一人でも多くの人々に想いを寄せ、神様に心を向けて祈ってまいりたいと思います。

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