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2016年11月18日(金)ウイリアムス神学館 み言葉の礼拝

勧話「雨宮まみさんに寄せて」

昨日、作家の雨宮まみさんの訃報を聞き、とても驚きました。40歳でした。

雨宮まみさんとは2年間ほど一緒にテレビ番組の仕事をしておりました。
2年間もテレビ番組の仕事で一緒だったのですが、友人になる訳でもなく、知り合いになるわけでもなく、狭いスタジオで、共に時間を過ごし、演者とスタッフという関係の中で、お互いにリスペクトし合うという関係の中、目が合ったりすれ違ったりしたら少し話しをする程度でした。

テレビ番組の制作というのは、ある種刹那的であり、流れては消えていき、しかし、その一瞬一瞬が戦いであり、スタッフや演者も、それぞれが違う所属からその時だけ集まり、本番が終わると散っていくという関係の現場でした。

その番組は、女性向けの番組で、彼女にとっては水を得た魚のように生き生きとしてお話しになっていたことを思い出します。

「女性を解放」するというコンセプトの番組でした。
この社会にあって、男性からみた女性像を生きていかないと生きていけない様な雰囲気の中、取り立ててモテるわけでもなく、ちやほやされるわけでもなく、さらには女性集団の中でもヒエラルキーの下の方に位置づけられ、それでもかたち作られた女性像を求められるうちに「女子をこじらせて」しまった彼女自身が、雨宮まみ、ひいては「彼女自身そのまま」で意見を言い、話す事が出来、それを電波に乗せて社会に送り出すことが出来ることを、とても楽しんでいらっしゃいました。

この「女子をこじらせて」は2011年にWEB連載記事から書籍化されましたが、彼女の言葉、メッセージに、とても多くの女性達が共感し、励まされ、生きる希望を受け取っていました。

それだけ、社会的女性像というものが大きくのしかかり、自分を生きることよりも先に「女性」を生きることが求められているのだと思うと、いまもこの社会の中で苦しみ、悩んでいる方々にとって、彼女がこの世を去ってしまったことの大きさは、とても言葉では言い表せません。

私たちは、いまキリスト者というだけでなく、キリストに倣って生き、さらに、キリストを伝える、それも、召された者として伝えていくことをミッションとして生きていく道を歩んでいます。

決して小さくされているわけでもなく、虐げられているわけでもないのにもかかわらず、社会的女性性を知らないうちに提示され、それに生きようとして、こじらせてしまう。彼女はこの様な状況を受け容れることから始まり、それが言葉になりメッセージになったときに、彼女の言葉に多くの女性達が共感し勇気づけられました。

このことは、空気を読んで、自分じゃないものの様に振る舞い、周りや相手に会わせて生きることの苦しさを、女性性というものによって作られてしまっていると言えるのでしょう。

このような生きづらさというのは、女性性だけに限らず、社会そのものにそのような空気が存在しているのでしょう。それによって多くの方々が、自信を失い、生きる希望を失い、そして命を絶ってしまっています。

いま、キリスト者として、キリストに倣い、キリストに生き、その事を多くの方々に伝える事をミッションとして歩むことを選択したものとして、雨宮まみさんとの出会い、彼女の思い、そしてその先にいる多くの女性達の思いに心を寄せて祈り続けたいと思います。

 

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