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2016年9月25日 日曜学校 お話し

「2016年9月25日 日曜学校 お話し」

マタイによる福音書7章1節から

人を裁くな。裁くと言う言葉が出てきましたが、少し難しいですね。
裁くとは、正しいか正しくないかを人に対して行う事です。

例えば、あの人はあんなことをしている、あれダメなことななんだ、言ってやろう とか
この人はこんな悪いことをしている、ねぇねぇ、あの人、こんな悪いことをしているんだよ。とか

中には、本当に悪いことをしていることもあると思います。
でも、それ以上に、私たちが、かってに人のことを決めつけてしまうことが沢山あるんじゃないでしょうか。

その一つに、人のうわさ話をするというのがあります。
うわさ話は、今ここにいない人の話を、勝手な思い込みで、あることないことを話す事です。

ねぇねぇ、○○さんってさ、このあいだこんなことを言っていたらしいよ。
そうそう、それって、やだよねぇ、サイテーとか。

あいつのこういう所、嫌なんだよなぁ、そう思わない?
次からもう話すのやめようよ

数え上げたら切りがありません。
悪口を言ったり、笑いものにしたり。

そして、相手のことを「あの人はこういう人なんだ」と決めつけてしまうんです。

イエス様は「人を裁くな」とおっしゃっています。
それは、「あなた方も裁かれないためです」と言われています。

いま、だれかとうわさ話をして、だれかの悪口を言っていたとしましょう、もしかすると、すこし愉快な気持ちになるかも知れません。
しかし、自分がその場から離れたら、その人は、他のだれかと、私の悪口を言っているかも知れません。

人のことを思うとき、人には良いところが沢山あります。
一人ひとりがそれぞれ違う、良いところがあります。
悪いところを見つけることよりも、良いところを見つけて、お互いに認め合うことが出来れば、イエス様の話された「人を裁くな」というお約束が守れると思います。

イエス様とのお約束を心にとめて、礼拝を続けましょう。

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「2016年09月24日 聖光教会 夕の礼拝 お話し」

「2016年09月24日 聖光教会 夕の礼拝 お話し」

今読まれました使徒言行録20章7節以下に、パウロがエウティコという若者を生き返らせる話が出てきましたが、「騒ぐな、まだ生きている」という一言で終わっています。
淡々と過ぎて行ってしまうような一言ですが、死んだはずの若者を生き返らせているので、相当大きな出来事ではないかと思います。12節には「人々は大いに慰められた」と記されていますので、やはり、それなりの大きな出来事だったのだと思われます。

聖書には随所に死からのよみがえりが出てきます。
なかなか、現実世界では死からのよみがえりというのは想像しにくいのですが、イエス様そのものが復活され、その復活のイエスと共にいる私たちの信仰を考えるとき、生き返るということをいつも意識していきたいと考えております。

先日、神戸教区では宣教140周年記念礼拝が行われました。教区内外から沢山の方々がお越しになられ、盛大な礼拝を神様にお献げすることが出来ました。
礼拝後、ある司祭様を囲みながら何名かで話しをしていたときに、青年に対して「回心がなければ聖職としてやっていくのは難しい」という話しをされました。
この世的な自らの罪の赦しをいくら憐れみ、願い祈っても、また、神様に対する罪のゆるしを乞い願っても、そこの主語は「私」であり、私が中心になってしまっているのではないかと。

私自身がちゃんとした信仰をいままで持っていたのかということを問われたとき、以前にもお話をしたとおり、2011年の東日本大震災の支援ボランティアを行っていたときの慰労会で「宮田さんを通してイエス様が働かれ、神様の働きが現れたのだと思います」という言葉と出会ったときに、人生で初めて、今に生きるキリストと出会い、実感としてなるほどと感じました。

2011年より前の数年は、色々と大変な時期で、疲労困憊の生活を送っていて、出口の見えないトンネルを延々と歩いているような状況でした。

この出口の見えないトンネルを延々と歩いているというのは、本当につらいもので、私が私でない状態になり、まるで何も出来ない状態となるのです。
この様な状況の中では、一歩先も見えない状態ですから、生きる希望などどこにもありません。
ただただ、目の前の家族を見ながら、日々、悶々と過ごすだけです。
幸いなことに、目の前に家族という存在があったので、暗いトンネルの中でも、呼吸が出来ていたのかも知れません。

私の場合は、家族があり、インターネットもあり、ラジオもあり、時間もあまりあるほどありましたので、心を休めるには、とても良い状況が整っていたのかも知れません。

よく言われますことに、「一度死にそうになった命、もしくは一度死んだ命、だと思って、これからは皆様のために生きていきます。」という言葉を聞きます。

この言葉を実感として感じるというのはなかなか難しいものです。
特に不祥事を起こしたときの謝罪などでこの言葉が使われるとき、本当にその様に思っているのだろうかという疑念を持ちながら聞いてしまうこともあります。
その程度で死んだつもりになっていたらいくら死んでも足りないなどと考えてしまいます。
また、この場合の「死んだと思って」と言うときの主語は、やはり「私」だと思われます。

出口の見えないトンネルを歩いている人たちは、突然神様からのお召しによってこの世を去ることがあります。
一見、自ら選択しているように思える事柄でも、交通事故や災害、病気などで天に召されると同じように、天に召されているのです。

出口の見えないトンネルが、ある日突然、そのトンネルそのものが消えるということが起きます。
私を含めて、多くの人が同じような体験をしております。

この時、たまたま私と家族はクリスチャンであり、教会生活を送っていたために、キリスト教信仰と結びつき、後々、復活のキリストというキリスト教信仰の本質を追体験することが出来たのです。
しかし、それに気がつくのは、後々なのです。

キリスト教徒が冒す「罪」とは「神の方を見なくなる」という状態を指します。
神様の方を見ることなく、自らを中心にして生きている状態。

私は神様を見ているよ、いつも神様を信じているよ、と言う方も沢山いらっしゃいます。
その上で私たちキリスト教徒は「復活のキリスト」を信じ、信仰の本質に据えないとなりません。

復活のキリストを信じるとき、私たち人間はそこに「回心」が求められるのではないでしょうか。
「回心」と言われても、私自身がそうであったように、自ら望んで「回心」出来るものではないように感じることがあります。
神様の存在が超越的存在であればあるほど、神様の方から「回心」させられる状況を与えられ、それに気がつく事が出来るか。それとも、気がつかないか。
それほどまでに私たちは神様に対しての選択の自由を神様から与えられています。

エウティコという青年は、三階からおちて一度死んでしまいましたが、新たに生き返り、生き返った後にパウロによって裂かれたパンを食べています。

私たちも、神様から与えられる恵み、それが喜びなのか、苦難なのか、その時々で何が与えられるかはわかりませんが、いつも神様の方を向き、神様からのメッセージを聞けるように心を向け、今に生きるキリストに気がつけるように、そして、大いに慰められるように、日々祈り整えていきたいと思います。

 

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