Monthly Archives: 7月 2016

「炎のランナーのテーマ」

NHKラジオで、オリンピックの思い出とそれにちなんだ曲が放送されている。

「炎のランナー」が流れてきた。1986年の夏を思い出す。

長野県にある山の子学園という障害者施設で七日間にわたるボランティに参加していた。
毎朝6時になると、山の中にある施設全体に目覚ましの音楽が流れる。
当直職員の独断と偏見で曲が選ばれているらしい。

その目覚ましの曲の一つに「炎のランナーのテーマ」があった。
山深い長野。木々に囲まれ朝日が差し込む涼しい夏の朝に「炎のランナーのテーマ」のピアノが荘厳に山間に鳴り響く。

一日の始まりの朝に相応しい、静かな中に壮大でエネルギッシュな曲が流れてきて、参加者一同、朝から感動することがあった。

これが天気の悪い雨の日にはどうしても合わない。朝日が差し込み、澄んだ空気の中、山間に響き渡る「炎のランナーのテーマ」を聞きながら空を見上げて聞き惚れるという状況が必要。

山の子学園は、その後の人生を決定づける体験だった。

「炎のランナー」という映画は、見たことがあるが内容についてはあまり良く覚えていない。
ユダヤ人と宣教師のふたりのランナーの物語。
原題の「Chariots of Fire」は旧約聖書の箇所がモチーフになっているとのこと。

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2016年7月16日 書き下ろし

神学校の1学期がほぼ終わりました。残るは面接と終了礼拝のみになりました。
少し振り返ってみたいと思います。

1学期の授業は、何をどの様に学んで行けば良いのかがわからない不安と、果たしてこの様な感じで3年間も学ぶことが出来るのかという不安が常に漂っていました。
テストが迫ってきて、まったくわからない不安がますます膨らんで来るのですが、神様に祈りつつ、準備を進める内に、1学期分の学んだことが少しずつ見えてきました。実際には身になっているとは言いがたいのですが、キーワードを拾い集め、その事について書き出し、簡単なノートを作ることによって、「あぁ、こういうことを学んでいたのかぁ」と気がつくのです。

もともと人の話を聞き理解することが不得意なので、授業中に理解することはほとんど出来ません。そのためにボイスレコーダーで録音をしているのですが、このテスト準備ために、いくつかを聞き直してみたところ、「おぉ、こういうことだったのか」と理解が進みました。
テストの結果については、来学期にならないとわからない様なので、これもまた祈って待つことにいたします。

 

神学館では、日に三度の礼拝を持って過ごしていますが、その礼拝の都度、心を神にむき直す時として役に立っております。

日々の生活の中では、小さな事から大きな事まで色々と考え悩む事があります。小さな事では、ちょっとした失敗や、自分の思うようにならないような事などがあり、大きな事では、将来に対する不安や、家族への心配などがあります。それらの不安や悩み事を、日に三度の礼拝において神様にゆだね、神様の愛とキリストの恵みに気がつく事を願い、礼拝を守っております。この、心を神にむき直す時というのがどれだけ大切かというのは、神学校生活では本当に身にしみて感じます。

神様の方に心が向いていない、「的を射ない」「的外れ」という言葉で表現されますが、そのような神様に心が向かなくなることを「私たちの罪」とされていますことからも、この「私たちの罪」を、日々の礼拝によって、軌道修正させてくれます。これは、ハイキングや登山などでコンパスを使って、都度方向を確認し、方向を定めながら目標を目指すことと同じです。このコンパスが失われてしまうと、目標が見えなくなってしまうのと同じように、日々の学生生活の中で礼拝が失われてしまうと言うのは、コンパスを失うのと同じなのでしょう。日々の礼拝を大切に守っていきたいと思います。

教会実習においては、新しい方々との出会いを通して、学ぶことが沢山ありました。
特に一番の学びは、直接に教会運営に関与しない立場で教会生活を送ることでした。

今までの経験や実績、体験などを通して、自分が出来ること、出来ないこと、もしくはアイデアや技術など、そのほか、色々なことがありますが、神学生という立ち位置で教会に関わり、聖職を目指す奉仕者としての立ち位置を探しながら、関わっていくことに新鮮さを感じています。
自分の立ち位置を探しながら、教会生活を送るということは、ある意味においては、教会に責任を持つことなく、責任のある行動をとることが求められます。またその逆に、責任を持つような事柄には、実習中の学生としての責任を持ちながら、教会の責任を背負わないような立ち位置を探して関わっていく。この感覚が、楽しくもあり、難しくもあり、教会実習として良き学びになっていると感じております。

この夏は、神戸ミカエル教会で夏期実習が用意されております。教区の様々な行事にも参加してまいります。
そのなかで、中学生・高校生を対象にしたキャンプ、中高生大会に参加いたします。
私はキャンプ中に「証し」をすることになりました。
「証し」そのものは、私とイエス・キリストとのことを話せば良いので、話せるのですが、中高生大会のテーマになっている「らしさ」、「私らしさってなんだろう」という「らしさ」というテーマについてもすこし触れられれば触れて欲しいというような感じでした。

そこで、「らしさ」って何だろうと黙想してみましたが、その前に、大きな問題にぶつかってしまいました。
そう、私自身が「らしさ」というものを一度も考えたことがなかったのです。別の言い方をすると「らしさ」そのものの存在を認めていなかったのです。

すでに7日間考えていますが、やっぱり「らしさ」そのものが理解できません。
この「らしさ」を考えるときに、思い当たることがあります。
それは「らしさ」を考える、もしくは悩む人たちと、「らしさ」そのものを考えない人たちの溝が存在するのではないかということです。
それは、例えば、学校や職場において、友達を作りワイワイと楽しみ、ずっと一緒に過ごすような仲間
・友達意識を持って生活している人たちと、そうではなく、1人自らの探し求める事柄に歩んでいく人たちの大きな隔たりです。
「中二病」という言葉が数年前に流行りました。これは病名でも何でもなくて、ただ単に、中学二年生ごろに特有な「自分だけが全能であり、何でもすごいパワーを持っている」と妄想したり、「自分は特殊能力を持っていて、いまはまだ眠っているだけなんだ」と妄想してみたり、またそれに付随するように、奇異な行動や言動をとってしまう、思春期特有の現象を指して、多少の揶揄と自虐性を持って「中二病」とお笑いタレントが名付けた名称です。
それ以外にもこの「らしさ」について悩むというのも「中二病」の一つの現象だと思われます。

イエス・キリストは私たちに「らしさ」を求めたのだろうか、ということを、ここのところ考えております。
神様は私たちに「らしさ」を授けたのだろうかと。

結論的な話しだとすると、たぶん神様も、イエス・キリストも「そのままのあなたで良いんだよ」という事になってしまうのだと思います。
神様は私たちを作られたときに「良し」とされているわけですから、もう、そのままの自分で良いのだと思います。
イエス・キリストも、色々な人びとと出会い、「お前らしくないからダメだ」とは言っていないと思いますし、「あなたらしく生きなさい」とも言っていないと思うのです。

この中高生たちの思い「らしさ」というテーマを思うとき、彼らが、どの様にこの「らしさ」について思い巡らし、どの様に悩んでいるのか、もしくは「らしさ」を探そうとしているのか。
または、この「らしさ」について、ついて行けない人がいないだろうか、ということを考えながら、参加しようと思っております。

教会実習とはまた違う、色々な人との出会いを通して、神様の愛、イエス・キリストの恵みを感じられるように自分を備え、言葉や思いを受け入れられるように、祈ってまいりたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン

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2016年7月2日 夕の礼拝

2016年7月2日 夕の礼拝

ローマの信徒への手紙 8:18-25

私たちの希望とは何でしょうか。

子どもの頃から、希望や夢というものを持っていなかった私には、理解しにくい事柄です。
幼稚園の頃、お絵かきをしたり、お話をしたりするなかで、「大きくなったら何になりたいですか?」「どういう大人になりたいですか?」と言われて、希望の絵を描いたり、お話をしたりということが良くありました。
しかし、私には、それがなかったのです。仕方がないので、お絵かきでしたら「自分が書くことの出来る絵」を描いて、その絵に合わせて適当に作り話をしていました。

覚えているエピソードでは、お絵かきの時間に「将来のなりたいもの」を書きましょうと言うのがあり、絵が描けなかった私は、一番手軽に書けそうな「お馬の絵」を描きました。そこまでは覚えています。その後は自分では覚えていないのですが、馬と大人を組み合わせたら、競馬の騎手になる事に気がついたのでしょう、「将来は競馬の騎手になりたい」と話したそうです。
そこまでだったら良かったのですが、競馬というのが賭け事だと言うことを知りませんでしたので、何も気にしていなかったのです。後から母から言われたのは「宮田くんのご両親は競馬をやっているんですね」と言われて、良い気はしなかったという話しです。両親は競馬を全くやっていなかったのです。

周りの子どもたちは、色々と話しながら楽しそうに将来の夢の絵を描いていたのを思い出します。

リンパ線ガンで希望を失っている高校生のお話しを先日いたしましたが、その彼は「SEKAI NO OWARI」というバンドのファンだと言うことを知りました。

「SEKAI NO OWARI」というバンドは、2011年にメジャーデビューをして一躍人気者になったバンドです。2015年にはNHK全国学校音楽コンクールの中学生の部の課題曲にも選ばれています。

曲の雰囲気は、デジタル楽器とビジュアル演出が合わさってとてもファンタジーを感じる、少し未来的な印象を受ける楽曲です。

今週は、この「SEKAI NO OWARI」の曲を聴きながら勉強をしていました。

何度も何度も繰り返し聴いているうちに、なにか違和感を感じました。

曲はとてもメロディアスで綺麗で、キラキラしたファンタジーに溢れる曲なのですが、歌詞がとても絶望的なのです。
この現実世界に対して絶望的なまでの歌詞が続きます。
ファンタジーだから現実に対してアンチを叫んでいるのではないかと考えている方も多いようですが、どうもそうでもないのではないかと思うのです。

私たちは、ずっと現実世界の希望を持たされてきました。そして希望を持つことが最善と教えてこられました。
しかし、現実はどうでしょうか。1980年代までは、高度経済成長の続きで夢も希望も持つことが出来、それが実現できる世界だったのかもしれません。
90年代に入り、バブル崩壊後、様々な現実が目の前に現れてきました。そして、21世紀に入ります。
21世紀と言えば、車が空を飛び、空中に張り巡らされたパイプの中を人が浮きながら移動して、ワンタッチで食事が取れるような未来の21世紀です。そのような時代は来ませんでした。
アニメの世界では、私たちの想像の未来はもっと先に進んでいて、第三次世界大戦が勃発して、放射能に汚染され、廃墟となった都市が描かれています。
もしくは、様々な問題が解決できずに、崩壊し破壊され尽くした世界で、小さくなって生きていく人間たちという世界観が登場します。
そのような時代を背景に生まれてきた子どもたちが、いま、「SEKAI NO OWARI」というバンドに惹かれているのです。

「将来の夢というものが実現できる世界ではない」
「頑張ったところで報われるとは限らない」
「正義と大人は叫んでいるけど、正義と言えばいうほど反対側の人たちを作り出している」
「平和を維持するために戦争が必要になってしまっている」
と、シニカルに、そして現実的に歌っているのです。

このバンドの世界観は、アニメの世界で先に進んでしまった未来のように、私たちが普段見ている世界とはちがう、「絶望」という時代の中にいる「私たち」からの声のように思われます。
そして、それに共感する中高生たち、そして、その現実がファンタジーという雰囲気で包み込まれているために気がつかない大人たち。
きっと、絶望の淵にいる、先ほどの高校生も、このバンドの世界観に共感するところがあるのでしょう。

”明日を夢見るから今日が変わらないんだ
僕らが動かせるのは今日だけなのさ
今日こそは必ず何か始めてみよう
応援はあまりないけど頑張ってみるよ”
「SEKAI NO OWARI」 ”銀河街の悪夢” から

子どもたちには「目に見える希望」ばかりを求めていたように感じます。
そして、その結果も求められているのではないでしょうか。
子どもたちの笑顔を見るたびに、この子どもたちの笑顔が、悲しみに変わり、そしていつしか憎しみに変わっていってしまわないように。
「目に見えない希望」というものがあるんだ、「手に入れるもの」だけが希望ではないんだ、「あなたがいる」ただそのことが「私の希望なんだ」と。

そして肉体はいつの日か誰でもなくなってしまうけど、永遠の命という希望はあるんだと。

「イエスが共にいてくださる私」というものを実感するとき、「イエスはただそばにいてくれる存在」であり、決して、直接耳に声を掛けてきたり、手を取ってどこかへ連れて行ってくれることはありませんが、「そばに共にいてくださる」ことによって、その事が自然と相手に伝わり、「私が、私として”いる”」ということが神様に大切にされているんだ、と気が付くことによって、希望の光が見えてくるのだと思います。

父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

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