Monthly Archives: 10月 2013

「巡礼」と「寄り添う」

「巡礼」と「寄り添う」

なにが自分の中で引っかかっているのだろうか。
・「記号化」されているかされていないか。
・「多」対「多」「多」対「個」
などが思い浮かぶ。

自分自身に置き換えてみる。

津波で幼稚園バスが被災した。
わが子が乗っていて死亡した。
園舎も被災した。
園舎に祭壇がある。
多くの人が訪れる。
花を手向ける。
団体さんも来る。
花を手向ける。
宗教団体も来る。
花を手向ける。

この中に、父親である「私の存在」というのが無いのである。
わが子を失った悲しみに寄り添ってもらえる要素がない。

訪れる人たちは、何をしに来るのだろうか。
亡くなった子どもの魂の平安を願うのだろうか。
二度とこのような悲劇を繰り返さないように願うのだろうか。

残された私には、なんの希望も勇気も与えてくれない。
わが子やその友達が、自分とは関係なく記号化されていく気がする。

だからといって、来て下さる人たちに自分の気持ちを吐露して、すがるというのも違う気がする。
自分とわが子と幼稚園の関係性の中を、土足で歩かれている気分というのが一番近いかもしれない。

自分とわが子と幼稚園の関係性が精算されたとき、巡礼者を受け入れることが出来るのかもしれない。

その時は、すでに「記号化」されていて「多」対「多」の関係になり、広島や長崎の巡礼のように、他人事として自分のために巡礼出来るのだと思う。

その時が来るまでは「個」対「個」の関係性の中で、寄り添う人でありたいし、寄り添ってもらえる人と出会いたいと願う。

 

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サッカーから見えるもの

ずいぶん前に日本サッカー協会主催の公認キッズリーダーU-6コースを受講した。
6歳以下の子どもの指導を対象とした指導者講習会。

講義が90分・実技が90分。
今まで読んできた本が正解だったようで、今の時代に必要とされている指導者像というものを再認識できる有意義な内容だった。

・早期教育を目指したものではない。
・英才教育を目指したものではない。
・大人の都合の目標達成を期待しない。
・練習中に他の遊びを始めても怒らない。
・他人と比較しない
・喧嘩だってOK
・細々と指示しない
・プレッシャーをかけない

池上正氏の著書にも同じようなことが書かれている。
オシム氏のサッカー概念も同じようなことだと思われる。
また、子どもたちには、リーグ戦などの順位競争をさせないなども明記されている。

大人都合の勝利至上主義に子どもが振り回されてしまい、サッカーのおもしろさを奪う結果になるとのこと。
ブラジルでは既に子ども世代のリーグ戦は廃止されている。それどころか、リーグ戦があったために優秀な選手が輩出できなかったということだ。そのため、リーグ戦を廃止したとのこと。

サッカーから体罰が激減してずいぶん経つらしい。指導者・審判・コーチ・チーム。いずれも日本サッカー協会の認定がないと、成り立たない仕組みになっている。

そのうえ、資格制度が費用の発生する更新制のため、無用に資格だけあるという状態も改善されているのだと思う。

参加したいと思うクラブチームも沢山あり、子どもたちが選ぶことが出来るのも大きな要因だろう。

サッカーに限らず、こどもを中心とした活動を考えたとき、このような仕組みとセンスが要求されるのだと考える。

 

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